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花田植の概要

花田植の詳細

各地の田植行事

ギャラリー

花田植の概要

日本の中の花田植

花田植をする地域

写真 田植に関する行事は日本全国に存在します。国の文化財になっているものだけでも四十を超える数があり、周辺の同系統の行事や、かつて行われていたものを含めれば、それよりずっと多くなるはずです。
 これらの行事を分類する方法はいくつか考えられますが、例えば行われる時期で見てみると、【年初(正月・小正月)】・【田植時期】・【秋(収穫期)】の大きく三つに分かれます。
 この中で、東日本に多い【年初】や各地に分散している【秋】に行われるものは、季節的に田植の実作業を伴わず、舞やしぐさによるものが大半です。
 西日本に多い【田植時期】の行事では田植が行われるものもありますが、「御田植(祭・神事)」として、神田などの特別に設けられた田で、寺社の祭として行われるものが多いようです。地元の人が実際の田で牛を使って代掻きをし、囃しと歌に合わせて田植をする行事は、中国山地だけに残る特徴的なものです。
 この中国山地の田植行事は、大きくは西部の「花田植系(安芸系)」と、東部の「供養田植系(備後系)」とがあります。
 大きな違いは、花田植が「サンバイ」と呼ばれる田の神を祀るのに対し、供養田植は大山の信仰が背景になっていることで、これにより行事や歌に違いが生じています。
 ただし、花田植と供養田植には共通点もあり、二つの文化圏の間に位置する地域には複合的な形を持つ行事も存在します。  
 長い年月のうちに各々の良い部分を取り入れ合い、またその反対に地域の特性を出すことや、時代に応じた変更が加わることで、それぞれの姿になっているのでしょう。

» 全国の田植関係行事

花田植はいつ始まったか

花田植の歴史

 花田植がいつから始まったか、厳密な記録は残っていません。
 北広島町域では、田植の際の演奏を「田囃」と呼ぶことが多く、「田楽」という言い方はあまり古いものではありません。しかしこの「田楽」という名称は平安時代の物語や絵巻に登場しており、描かれる姿は田囃と似ています。
 中国地方の例では、室町時代に描かれた大山寺縁起絵巻の中に田植をする情景が見られます。また、同じ絵巻には、これとは少し違い、田楽師・田楽法師などと呼ばれた職業的な芸能者によるものと思われる絵も見られます。
 歌の研究の上では、北広島町の大朝地域で発見された「田植草紙」という歌本の中のいくつかの歌が、使われている言葉などから中世(室町時代)に成立したものではないかと推測されています。
 時代が下って江戸時代になると、庄屋や学者の文書の中に、「大田植」の姿が記されています。これは現在の花田植に近いものですが、今よりさらに規模が大きく、時間も丸一日かけての行事であったようです。
 大田植は江戸時代末から明治時代にかけて盛んに行われましたが、明治・大正期の農業の変革期に、米を効率よくたくさん作ることが重視されたため、多くの地域で廃れます。これが昭和初期の郷土芸能再興の時期に商工会により復興され、戦争による中止を経ながら戦後にふたたび復活、文化財指定の動きとともに現在に至っています。
 昭和時代の田植では、枠を目印にする「枠植え」が多く行われていましたが、花田植ではより古い形の「綱植え」をしています。これは、大田植が一時廃れた時期の方法であることから、中止される以前の姿で再開されたものと考えられます。

» 田楽・花田植の歴史

「花田植」と「囃し田」

花田植の名称

 現在、「花田植」という名称がよく知られていますが、これはあまり古いものではありません。
 「田植」は稲の苗を田に植えること全体を差します。その中で日常の仕事としての田植には、早い時期にできる稲の田植で、基本的に家族単位で作業する「早植(早稲植・わさ植)」や、大勢で協力する「組植(モヤイ植)」があり、囃しを伴うこともありました。
 それに対し特別な行事としての田植には「大田植(大田)」と呼ばれる、大勢でする行事的な田植があり、近世・近代はこの名称が使われていることが多くみられます。
 芸北地方の、サンバイを祀る「花田植」・芸備地方の大山信仰を背景とした「供養田植」は、この大田植の中でそれぞれの特徴を表わした名称で、いくらか研究者的な視点の入った、新しい言い方と思われます。
 また、「囃し田」というのは囃しを伴う田植のことで、行事性を持つ「大田植」との比較として、作業的なもののみを指していう場合もありますが、単純に「田囃を伴った田植」として考えるならば、作業的なもの・行事的なものの両方を表しても間違いではありません。

» 田植に関する名称の関係性(中国山地の例)

稲作のくらしと花田植

花田植の時期

 花田植の背景にあるのは、稲作を中心とした暮らしです。雪が溶けた春先に山で木を伐り(ヤバコリ)、その木と土を焼いて肥料(クグシ)を作るところからはじめ、田を耕し、畦付けをして、春の終わりに田植をします。
 花田植が行われたのは、田植の中でもしめくくりとなる最後の時期です。
 農業が機械化される以前、代掻きや田植など、その技術自体は多くの人が持つものでしたが、花田植を行うには会場となる大きな田や、出演するたくさんの人・牛が必要で、場所もお金も多くかかりました。地域の大地主が主催する場合には毎年行われるところもありましたが、そうでないところでは、牛馬の獣医や牛馬商などが仕事を辞める時に「牛馬供養」として行ったり、祝事のある家などが主催者となったりした時だけ行われました。
 花田植は、各地域で、一年に一度あるかないかの行事であったためどこかで花田植が行われるとなれば、出演者も見物人も近所や遠方から大勢集まったようです。

 

» 田植の仕事(芸北地方の例)

花田植の進め方

花田植の進行順序

 花田植の核となる部分は、牛の代掻きと田囃(田楽)・田植歌に合わせた田植で、江戸時代に書かれた大田植の記録にも同様の情景が見られます。また現在では、牛の飾り付けや、牛・人の道行も大きな見どころの一つになっています。
 初めに準備を終えた牛が道行をして会場となる田に入れられ、代掻きを始めます。牛はすべての代掻きを終えると田から出され、先に退出します。
 その間に人も道行をしながら田へとやって来ます。代掻きが進められる中、苗を苗代から取って束ねる「苗取り」をし、代掻きが終わって「えぶり」で均されたあと、田植綱に沿って田植をして行きます。
 行事の間、それぞれの場面に応じた田植歌が歌われ、作業はそれに合わせて進められます。

» 花田植の人・牛の動き

町内の花田植・田楽団体

 

 昔は北広島町域では、花田植や囃し田が今より多くありましたが、現在は毎年三ヶ所で花田植が行われています。
 また、子ども田楽や舞台で田楽のみを行う団体も活動しており、各種イベントに登場しています。

» 分布地図

» 北広島町の花田植関係指定文化財データ

花田植をする意味

 

 花田植は、田の神に豊穣を祈願する行事です。しかしその他にも様々な意味を合わせ持っており、それは時代によって変化しています。
 娯楽的側面はいつの時代もありましたが、昔は「日常とは違う特別の田植」だったものが、農業の機械化が進んだ現在では、「昔の田植」自体を楽しむものになっています。 
 近世など、稲作が暮らしの中心だった時代には、社会生活や労働といった側面が強く、反対に昭和時代以降は地域・郷土が意識された文化的側面が強く意識され、さらに現在では廃れてしまった道具の使い方や牛を操る技など、以前の稲作技術を残す資料的価値も現れています。
 花田植は、様々な部分で形を変えながら継承されて来ました。そこにはそれぞれの地域や時代の担い手たちの認識が反映されていると言えます。

» 昔と今